波の伊八
江戸時代の中期になると、建築彫刻の一つとして、欄間を総彫刻で飾ることが行われるようになりました。欄間は寺社建築から始まり、その後商人など一般人の住宅にも、広く用いられるようになります。
その欄間を彫刻する職人の一人が、初代伊八でした。関西の彫物師の間では、「関東へ行ったら波を彫るな」と言われたそうです。それは関東には伊八という、波を彫らせたら右にでるものがない職人がいたからです。
伊八は10歳の時から彫物をするようになりました。立体感と躍動感にあふれる横波を作風とし、同時代に活躍した葛飾北斎にも強い影響を与えたと言われています。北斎の浮世絵、富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」は、伊八の彫刻を真似たものであるとも言われます。
伊八の作風は、5代目伊八まで200年間続きました。房総半島の南部を中心として、伊八は寺院や神社の欄間彫刻に、優れた作品を多数残しています。
江戸時代も中期までは、彫師の墨書きがされず、彫刻を誰がしたのか、よくわからないものが多いといいます。しかし江戸中期以降は、墨書きがされ、名を残す彫り師も多く出るようになったと言われています。
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江戸時代後期の装飾過多の寺社建築
江戸時代も初期の頃は、寺社建築の装飾は、割合に簡素だったと言われています。建築彫刻もそれほど多くなく、以前からある定番の彫刻が飾られていた程度だとされています。ところが日光東照宮の造営を境に、それ以後、装飾過多とも言える寺社建築が多く作られるようになったといいます。
彫物大工という地位も、江戸中期の元禄以後に定着し、日光東照宮の建築彫刻の修理は、彫物大工として知られる「和泉家」と「高松家」がその後代々、受けることになっていったと言います。
装飾型の寺社建築は、まず江戸から始まりまったとされています。その後その周辺、多摩や千葉、関東へと広がっていったと言われます。江戸末期には、建物全体を装飾するようになったといいます。部材の間を装飾で埋めたり、部材自体に装飾を施したりなどのことが、されるようになりました。
江戸時代の末期には、それまでの漆で塗られた高価な建築彫刻に代わり、ケヤキを使い、その美しい木目を生かした「木地彫り」が、江戸彫りの主流となっていったといいます。
明治になり、考古学者のエドワード・モースが川越を訪れています。モースは川越氷川神社の壮麗な彫刻を見て、大変驚き、それを賛美したと言われています。
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伝説の彫物職人左甚五郎
左甚五郎は、江戸時代の初期に活躍したとされる、伝説的な彫物職人です。落語や講談にも登場し、左甚五郎の作品と言われる建築彫刻が、全国の各地に存在します。左利きであったから「左」という姓を名乗ったとも言われています。
左甚五郎は非常に有名ですが、実在の人物かどうかについて、意見が分かれています。実在の人物であるとする文献と、架空の人物であるとする文献とがあり、実際のところどちらであったのかについては、決着は付けられていないようです。
実在説によれば、左甚五郎は1594年に播州は明石に生まれました。13歳で宮大工の道に入り、その後江戸に下ります。徳川家大工甲良豊後守宗広の女婿となり、徳川家お抱えの宮大工の棟梁として名を上げます。
日光東照宮の眠り猫は、左甚五郎が、狩野派の狩野孝信の下絵により、製作されたと言われています。しかしその真偽の程は不明で、全国の他の左甚五郎の作品も、作風が異なるものも多く、多くは別人の製作であろうと言われています。
しかし左甚五郎の伝説が生まれた背景には、江戸時代に彫物師という専門職人が、宮大工から別れて発生し、彫物師たちの地位向上を支える雰囲気が、江戸にあったのだろうと考える人もいます。
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日光東照宮造営による江戸彫りの発生
江戸時代に始まった建築彫刻は、「江戸彫り」と呼ばれています。江戸彫りの中心は「和泉家」で、始祖は伝説の彫り物職人、左甚五郎と言われています。和泉家は日光東照宮の造営に加わります。和泉家は幕府の建物を専門に担当したため、一般の寺院や神社には関わっていないと言われます。
日光東照宮の建築彫刻は、彫物大工たちが狩野派から下絵をもらい、製作したのではないかと考える人もいます。その下絵は、彫物職人が大切に保管し、職人の家に代々伝わったと言うのです。江戸の彫物職人たちは、この狩野派の描いた下絵に影響を受け、東照宮以後の建築彫刻を製作していったと考えるのです。
しかし江戸時代も後期になると、建築彫刻の作風に変化が現れるといいます。それまで龍や獏など空想上の霊獣を主に扱っていたところから、より現実の動物を彫刻し、写実的、また個性的になったというのです。彫刻もそれまでは、比較的平面的だったものが、より立体的になり、「籠彫り」など彫物職人の腕を競うようなものとなっていったといいます。
これは江戸の彫物職人たちが、狩野派の下絵を元に腕を磨きながら、徐々に自分たち独自の流儀を編み出していったのではないかと考えられるということなのです。
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江戸彫りの歴史
日本における木彫刻の歴史は、遠く飛鳥時代に遡ると言われています。仏教の伝来と共に、仏像が彫られるようになったのです。奈良時代から平安時代、そして鎌倉時代に至るまで、多くの仏像が彫られることになりました。
ところが室町時代になると、禅宗が盛んになります。禅宗では仏像を必要としなかったので、仏像の彫刻は影を潜め、代わって建築彫刻が、大きく隆盛していきます。左甚五郎はこの頃、桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍したと言われています。
建築彫刻は元々は、宮大工が行うものでした。ところがそのうち、大工と別れて、建築彫刻を専門に行う宮彫師が現れるようになりました。建築彫刻の代表的な作品が、日光東照宮の陽明門です。
明治時代になり、西洋建築が建てられるようになりました。それまでは寺院や神社の建築彫刻が専門だった職人たちも、職を求め、西洋彫刻にも手を伸ばすようになりました。国会議事堂には、昭和初期の彫刻職人300余名が関わった、立派な彫刻が今でも飾られています。
彫刻は、彫る技術が大事であることは言うまでもありませんが、作品の善し悪しは、下絵により大きく左右されます。ですから彫刻職人は、絵や書、また茶道や華道など、広い教養をもつことが重要とされるのです。
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